東野圭吾の同名小説を映画化。原作はずいぶん昔に読んだはずだが(1990年代から2000年代の東野圭吾は全部読んだはず)、ほとんど憶えてなかった。多作過ぎるんだよな、先生。
中堅劇団「水滸」のメンバー6人が海辺の別荘に到着する。彼らにオーディションに合格した新人一人を加えた7人で次回上演予定の、記録的な豪雪に襲われ、電話も通じない孤立した山荘での殺人劇「ある閉ざされた雪の山荘で」という芝居の稽古をすることになっていた。
劇団を主宰する演出家の東郷は不在。彼からのメッセージは適当なタイミングでリビングの壁に投映される。新人の久我和幸を除く6人はこうした東郷の奇をてらった趣向に驚くことはないらしい。が、それでも設定だけ与えられてシナリオを考えながら稽古をしろと言われたのは初めてだ。
初日の夜は久我の歓迎会と称して豪勢なディナー。酒とともに演技論など戦わせながら三々五々自室に戻って行く…最後に残ったのはヘッドフォンをつけてピアノの練習をしていた笠原温子。翌朝皆が起き出すと温子の姿は消えており壁には「笠原温子の死体はピアノの傍にあり、ヘッドホンのコードで首を絞殺された」との「設定」が…。
東郷の意図を推し量りながらそれぞれの行動を取るメンバーたち。しかし三日目の朝、元村由梨江が失踪し「由梨江の死体は、前頭部に鈍器による打撃痕があり、首を絞められた痕が残っている」という「設定」の通り、凶器らしき花瓶に血痕が付着していたことで皆の心に「これは本当に芝居なのか」という疑いが…。
うーん。これ、たしか舞台にもなってた気がするが、舞台や小説なら許されるが映画だとそこ気になっちゃうよな、という「設定上のアナ」みたいなものが目立っちゃうなぁ。具体的に指摘するとこれから観る人にネタバレになるので書けないが、その辺りもっと突き詰めて脚本に落とす必要があったんぢゃないかなぁ。