副題に「映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像」とついている。そう、岡本喜八監督は「戦中派」だ。1924年(大正13年)の早生まれ,本名は喜八郎。生家は鳥取県米子市の裕福な商家だった。幼くして母と姉を病で亡くしたが、父の後妻にも可愛がられ幸せと言っていい少年時代を過ごした。米子商蚕学校の修学旅行では東京を訪れ、有楽町・日劇で映画「支那の夜」を観ている。
1941年(昭和16年)。商蚕学校を卒業して明治大学専門部に入学、潤沢な仕送りを遣いやたら映画を観るようになり、いつしか「映画を作る側の人間」になりたいと思うように。二年後(当時の大学専門部は2年半で卒業)の7月には東宝映画株式会社に履歴書を送り入社試験に合格。10月、明治大学を卒業し東宝で助監督として働き始める。先輩には「姿三四郎」で監督デビューしたばかりの黒澤明がいた。
しかしこの1943年は、あの学徒出陣の年である。明治神宮外苑競技場でとり行われたあの有名な壮行会には専門部から学部に進んだ友人たちの顔もあり、翌44年の1月には岡本喜八郎にも徴用令が下り、撮影所の代わりに中島飛行機の工場で働くことになる。そして徴兵、45年1月には陸軍工兵学校に入校して本土決戦に備えることになり…あの「日本のいちばん長い日」がやってくるのである。
ここまでが本の前半。
岡本喜八は早生まれであったため同学年の仲間の多くより少しだけ入隊が遅れた。それで命拾いをした、といろんなところで語っている。実際、商蚕学校の同級生は半数が戦死したという。その経験が後の作品群にどう反映しているか…。まるで種明かしのような後半はとても興味深い。戦争映画だけぢゃない。「ダイナマイトどんどん」のアレとか「大誘拐 RAINBOW KIDS」のあそことか…。いやこっちをもっと沢山調べて書いて欲しかったですよ。
余談、オレ自身には「兵隊としての戦争の話」を聴ける身内はいなかったが(遺影はあった)、中学の社会科教師が特攻ボート「震洋」の部隊の生き残りだった。いわく「ぺらぺらのベニヤ板にエンジンと爆弾を積んだだけのもの」に乗って敵艦にツッコンでいく役回り。「あと一週間終戦が遅れていたらボクは君らの前にはいなかったんだよ」と言っていた。昨年数十年ぶりに再会した当時の同級生と、あれはいい授業だったなぁと言いあった。