キャッチーなタイトルである。「実在したのか?」という問いかけ自体,含意として「いやあなた実在しなかったんですよ,少なくともアタシはそう思ってんです」というココロを滲ませているわけで,「なんだと,いたに決まってるぢゃないか」と思うキリスト者も「ああやっぱり,そもそも処女懐妊なんてあるわけないやないの」と嗤う非キリスト者も「ひとつ読んでみようかしら」って気になる。
なので読んでみた。
読み始めてすぐにこのタイトルに仕掛けられた巧妙な罠に気づく。著者が実在を疑っているのはキリスト(救世主)としてのイエスであって,歴史上の人物であるナザレのイエスではない。つまり「ナザレのイエスはキリストぢゃない」のだ。たしかにナザレのイエスというオトコはいた。著者は「新約聖書」と総称される資料をその成立年代や来歴からコマカに分析し,血の通った実在の人物であるイエスの事績とあとからくっついた尾ひれの類に辛抱強く分別していく。
それによれば…だ。ナザレのイエスはローマ支配下にあった当時のエルサレムの宗教界を牛耳っていたユダヤ教会の腐敗に異を唱えて乱立した草の根的宗教改革グループのひとつのリーダーだったってんですね。ユダヤ教におけるマルティン・ルター,日蓮宗における牧口常三郎ってトコかいな。ユダヤ教の坊主が大枚を要求する悪魔払いを無料でやったり,教会が高額な所場代とってるバザールを荒らしたり結構過激なことをしてる。
で,まぁとっつかまって処刑されたわけだけど,あの時代に彼と同じような運動をして同じように処刑されたヒトは結構たくさんおったんだと。ほんで彼の死後も仲間たちは弟のヤコブを中心に穏健にしかしホゾボソとユダヤ教の改革を説いていたんだと。その主張の基本はもっとモーセの原点に戻ってちゃんと戒律を守りましょう,というもので,そのころは誰も死んだイエスを「神」だなんて思ってなかった…。
ではそんな彼らの信仰が,いつからイエスと神とが同一視され,彼が処女マリアから生まれたことになり,戒律ではなく「愛」を説くようになったのか。いや敬虔なキリスト者の皆さんにとってそんなことは常識なのかも知れないんだが,浄土真宗本願寺派の門徒でしかもあまり敬虔とも言えないオレにとってはこの謎解きは実に面白かった。聖書や基督教に関してオレと同じくらいの造詣しかない(つうかそういうのを「造詣」とは言わない)ヒトにはきっと面白いと思う。
あ,ところであの「ナザレのイエス」って呼び方だが,名字がない社会でイエスという同じ名前を持つヒトを区別するために出身地をくっつけて呼んだものである。早い話,清水の次郎長とか黒駒の勝蔵,森の石松とかと一緒だよな。そう考えるとちょっと親しみが湧く…湧かないか。