「犯罪」でその存在を知らしめた著者,シーラッハが初めて世に問うた長編小説。
いやこの「世に問うた」って言い回し,けっこうよく使われるけど正直オレは「ちょっと大げさなんぢゃねぇの?」といつも思ってた。「その『世』ってなんだかえらい狭くない?」と思ったり「ただただ自分のただれたセックスライフを開陳してるだけ。『オレって変態?』って『世に問う』ほどのこと?」と思ったりしてた。
だからこれまでオレはこの表現,ギャグとして以外は使ったことがない(はずである。あんまり自信ないけど)。それを敢えて使った…だけでなくこうやってくどくどとその背景というか来歴というか事情というかを縷々説明しようとまでしている,という辺りで察して欲しいんだが,ホントにこれ「世(この「世」は厳密には著者の属するドイツ社会ね)に問うた」作品なのでありドイツ社会はまさしく「問われちゃった」のである。
小説は殺人事件で始まる。ベルリンの高級ホテルのスイートルームに投宿中だった大実業家ジャン=バプディスト・マイヤー85歳が,新聞記者を装って訪ねてきた元自動車組立工でイタリア国籍のファブリツィオ・マリア・コリーニ67歳に射殺される。銃弾4発。顔が半分吹き飛んだその死体をコリーニは何度も何度も靴の踵で踏みつけたあと,ロビーに降りて警察を呼んでくれと頼んだ。
殺人容疑で拘留されたコリーニのために呼ばれたのは弁護士になって42日のカスパー・ライネン。勢い込んで依頼人に逢いに行った新米弁護士に,しかしコリーニは事件について何も語ろうとしない。1934年生まれ,ドイツのダイムラー社で組立工として34年働いてきたイタリア人。あとは「弁護士はいらない。弁護してもらう必要はない。おれは,あの男を殺した」と繰り返す。
弁護の方針を立てかねているライネンのもとに夭逝した親友フィリップの姉ヨハナから連絡が入る。「どうしてあんな奴の弁護をするの?」。戸惑うライネンに彼女が告げる。殺された人物はフィリップとヨハナの祖父,ライネン自身も少年時代の多くの時間をともに過ごしたハンス・マイヤーだったのだ。老人はフランス人の母がつけたジャン(ヨハネス)という名前を嫌ってドイツ風にハンスと名乗っていたのだった。
公職と私情の間で苦悩するライネン。相変わらず依頼人は殺人の動機を語らず,しかも被害者側の依頼で公訴参加代理人,つまりライネンの敵方には辣腕の大物弁護士マッティンガーが。マッティンガーは若いライネンに容赦せず,公判は「殺人の理由」を中空に浮かべたままコリーニの断罪に向かって突き進んでゆく。が,しかし…。
ここから先は是非ご自分でお読みいただきたい。興味を持っていただくためにこれだけ書き足しておこう。この続きでライネンがあきらかにすることになるドイツの法律上の問題点は,この小説の発表がきっかけとなって見直されることになった。これは「政治を動かした小説」なのである。