1962年8月5日,女優マリリン・モンローはその年の2月に購入したばかりだったブレトンウッドの自宅のベッドで亡くなった。死因は睡眠薬の過剰摂取。自殺も噂されたが真実は謎。この映画は,死後40数年経って発見され公開された彼女自身のメモや詩編,日記めいた走り書きなどの遺稿をもとに「おつむの弱いセックス・シンボル」ではない,一人の誠実な人間としてのマリリンをスクリーンに再構築しようとしたドキュメンタリーである。
マリリンの「分身」として,遺稿の言葉を独白するのは年齢もキャリアもまちまちの10人の女優たち。グレン・グローズ,マリサ・トメイ,ヴィオラ・デイヴィス,エヴァン・レイチェル・ウッド,ユマ・サーマン,ジェニファー・イーリー,エリザベス・バンクス,エレン・バースティン,リリ・テイラー,そしてリンジー・ローハン。
趣向はそれだけではない。生前のマリリンと仕事や私生活で関わりをもった人々が彼女について記した文章もまた,その書き手を演じる俳優たちによって語られる。ノーマン・メイラーはベン・フォスター,エリア・カザンはジェレミー・ピヴェン,トルーマン・カポーティは似ても似つかぬエイドリアン・ブロディによって「肉声」を再現されるわけだ。
そうして浮かび上がってくるのは,マリリン自身が知る自分自身と周囲が彼女に見るマリリン像の乖離。周囲の…特に男達は,そのキャリアのはじめに,仕事を得るために彼女が演じた「おバカなブロンド」というファンタジーにしがみつき,スターとなった彼女がその仮面を脱ぎ捨て,一人の女性,一個の人間として立とうとするのを頑なな子供のように否定する。
しかし男達のイメージした「マリリン・モンロー」は彼女にとって一つの「役」だった。1950年代,おそらくあのモンロー・ウォークが話題になった「ナイアガラ」の前後だと思うが,女友達が彼女について語る言葉が印象的だ。「彼女が『マリリンを見せてあげましょうか?』と言うの。そしてすっと背筋を伸ばすとみんなが突然彼女に気付く。もう大騒ぎよ」。
まるでカメレオンが体色を変えるように,彼女は必要に応じて「マリリン」を演じた。が,やがて彼女自身の真面目さ,向学心が大衆が求める「マリリン」に飽き足らなくなっていく。アクターズ・スタジオで一から演技を学び,UCLAの夜間クラスに通って文学を勉強する。その成果として「バス停留所」ではニューヨーク・タイムズ映画評に「遂に女優であることを証明した」と言わしめた。
が,意を強くして挑んだ次作「王子と踊り子」を監督したローレンス・オリビエ,最大のヒット作となった「お熱いのがお好き」の監督ビリー・ワイルダー,そして夫だった劇作家のアーサー・ミラーまでが,彼女が「おバカなブロンド」であり続けることを望み,またそれを強いた。それらに対する抵抗はすべて「我侭」と片づけられ,彼女は精神の均衡を失っていく。
というわけで,もちろんこれは悲劇である。悲劇なんだが…いや悲劇ゆえにか、スクリーンに甦るマリリンの姿は奇跡のように美しい。もしあなたがマリリン・モンローのファンであれば絶対に観るべき映画。そしてもしあなたがマリリン・モンローのファンでないなら,是非とも観てファンになっていただきたい映画である。