監訳者あとがきを引用すれば,「メディアは構成されたものであるという前提のもとに,イデオロギー,自分史,非言語的表現,神話分析の視点からメディアを読み解こう」とし,そうした「メディア製作のさまざまな方法や技法を明らかに」することを目標に書かれた一種の「教科書」である(各章末にレジュメというか復習ドリルみたいのもついてるし)。
例えばこんな話だ。「となりのサインフェルド」(1990年代に人気を博したコメディドラマ)のようなコメディは,主要な登場人物が直面するささいな問題,ちょっとした仕事上の目標の成就や人間関係の苦労などを扱う。ここには,「成功とは純粋に個人的満足によって測られるものだ」というメッセージが込められている。
彼等の社会的活動はそうした個人的欲求の充足と人間関係の構築(あるいは修復)に限定された形でオーディエンスに提示され,しかもその解決方法としてたいていはスポンサーの意に沿った「消費主義的行動」が採用される。映画を観に行くとか,ショッピングをするとか,そうした行為により彼等の「今週の問題」は解決あるいは先送りされるわけだ。
この本が出色なのは,上のようなメディア作品の構造分析に加えて,それを構成する諸要素,例えば登場人物の表情や動作,容姿や服装から,音声コミュニケーションの諸要素にわたる詳細な考察がなされていることだ。例えば会話における声の大きさは権威や信念の表れとなりうるし,逆に小ささは不安感,服従,曖昧さなどを表現する。
いやはや,全てのメディアがこの本に研究されていることがらを全て応用してその出力(だんだん作品とは呼びたくなくなってくる)を製作しているワケはない,と思うものの,そんなコトまでと空恐ろしくなるような部分もある。
対象をとらえるカメラ・アングルに意味があり,上から撮れば対象を弱く無力に,下から撮れば強さと権威を感じさせるくらいは知っていたが,その水平な移動方向にも意味があり,カメラが文字を読む方向(欧米では…このページもそうだけど左から右)に動く映像は安定を,逆は不安を醸しだすなんて知ってましたか?
まったく,誰かに読んでもらいたい,というより,ある種の連中にはあんまり読んでいただきたくないと思うような本である。そう思ったのはオレだけぢゃないらしく,地味な学術書にも関わらずオビの文句にはこう書かれていた。「どなたさまもご用心! 政治家までこんなことお勉強しているんだって…」。
今日のニッポンはかくあるのかもしれないと思ったので,ちょっと古い本だけどご紹介。