その町に引っ越して最初の休日,私は散歩の途中に古書店を見つける。間口は狭いが内部は広い。ぐるりと壁面を埋めている書架に加えて,フロアの中央に下部が平積み台になっている書店用の本棚が二列,それでも置ききらない本の山が床から直に積み上げられている。入り口のすぐ脇にあるレジの向こうでは品のいい老人が,彼自身と同じくらい年代物の,しかし座り心地は悪くなさそうな椅子に座って本を読んでいる。
しばらく書架に並ぶ本の背表紙を眺めていた私は不思議なことに気がつく。そりゃあ私は読書家なわけではないが,こんなにおびただしい本の山の中にいて,読んだことのある本どころか,題名や作者名に見覚えがある本が一冊もないのはどうしたわけだろうか。
布表紙の立派な全集本も,カラフルな表紙の単行本も,見るからに安手のノベルスや文庫本も,それどころかマンガですら,全て初めて目にする作者の聞いたこともない著作なのだ。
私は何かに駆り立てられるように見覚えのある本を探して店内をうろつきはじめる。平積みになっている本を持ち上げて下の本を確かめ,古雑誌をめくって目次を目で追いかける。ない,ない,ない。私は頭のなかで何かにすがるように,知っている作家の名前,作品のの名前を反復する。反復するうち,その名前が嘘臭く感じられるようになる。
そんな馬鹿な,狼狽した私は床に積み上げられた本の山の一つに手を突いてしまう。本の山は無残に崩れ,意外なほど大きな音を立てる。レジの向こうで老人が立ち上がり,おや,どうしました,といいながらこちらにやってくる。慌てふためいて床に散らばった本を拾い集めている私に彼は言う。
「いやいや,お客さん,それは私がやるので結構です。それに,こんなものを積むのにもそれなりのコツがありましてな」
私は恐縮しながらその場を離れ,老人が手際よく本の山を復元するのを眺めている。そうだ,おわびの意味でも何か1冊買って帰ろう。そう思いついた私は,手近なところにある1冊の単行本を選び,老人が作業を終えるのを待つ。レジに戻った老人は眼鏡をかけ直して奥付を確認して値段を告げる。私はその,高くも安くもない金額を払い,本の包みを受け取って外へ出る。
近所に喫茶店を見つけた私は,席に着くなりコーヒーを注文して包みを開ける。やはり初めて見る名前の作者の初めて見る題名の本。ページをめくるとそこには繰り返し繰り返し「これはなにかの暗喩ではない」とだけ書かれている。