歯ブラシ

 引っ越し屋の男が作業中に私の歯ブラシを落とし,踏みつけて壊してしまう。

 かなり長いこと使っているし,どこにでもある安物だから気にするなと言ったのに,翌日男は新しい歯ブラシを持って謝罪に来る。

 玄関先で歯ブラシだけ受け取ろうとする私に,男は口から泡を飛ばして持参した新しい歯ブラシの人間工学に基づいた設計と選び抜いた素材の良さ,職人が一房一房手植えした細工の精巧さなどをあげつらう。

 「とにかく一度使ってみてくださいよ。私のお詫びの印なんですから」

 私はその強引さに辟易し,わかったとにかく受け取るから帰ってくれと言ってドアを閉める。手に握らされたのは豪華桐箱入り,墨書された鑑定書付きの象牙の持ち手に真珠が埋め込まれた歯ブラシ。

 毎晩就寝する頃になると引っ越し屋の男による『歯は磨かれましたか』の磨き忘れ防止コール付き……。

 私は目下,如何にしたら彼に知られずどこか他の土地に引っ越せるか密かに検討中である。


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