水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流 ウィリアム・R. ラフルーア著

 ご存知の通りキリスト教では妊娠中絶を(それどころか公式には避妊さえも)認めておらず,中絶問題に対する態度はアメリカ大統領選挙の結構大きな争点の一つ,ネットでも「Gun Control」や「Mac vs Windows」と比肩する「聖戦ネタ」の一つである。そんな倫理観を持つ欧米人にとって,殺生を禁じる仏教がその行為を容認し,宗派によっては堕胎した子供を「水子」と呼んで供養するという日本の状況はとってもフシギなものらしい。著者ラフルーアはペンシルヴァニア大学教授で日本思想を専攻。本書は彼が,日本人のこの生命倫理観の源流を追い求めて1992年にまとめた,実に刺激的な日本文化論「LIQUID LIFE:Abortion and Buddhism in Japan」の全訳である。

 オレは別に水子研究者(そんなのいるのか?)でもないし,仏教徒ではあるけどウチの宗派(浄土真宗)は所謂水子供養をやらないことで有名である。にも関わらず,当初「外国人のセンセが日本の文化について外国のヒトに説明するために書いたホンね。どこまで日本人の心が分かっているのやら」と斜に構えて読みはじめた。だってそうでしょ? レイプされて出来ちゃった子供でも中絶はいかん,何故って聖書に「産めよ,増えよ」と書いてあるからってな具合にあっさりした頭ぢゃ日本人が水子を供養する気持ちなんか分からんよ,と思うでしょ?

 しかしまぁ予想されたことながら,頭の中があっさりしてる事ではオレもあんまり負けてなかったわけで(笑),読み進むにつれて目からウロコの落ちまくり,ああオレはこんなにも日本人のことを知らなかったのか,と反省することしきりであった。そのいちいちをここで開陳するわけにはいかないが,例えばあの「木枯し紋次郎」で有名な「間引き」という言葉。気づかなかったのはオレの迂闊だがあれはまさしく農業用語,苗の中から弱そうなものを抜いてその分の養分を強いものに回すことである。そりゃもちろん農民が人間の子供を間引くのは貧困の故だったろうが,そこに「その犠牲によって外の者が救われる」という含意があるとは蒙を啓かれた。

 まだある。上にみたキリスト教に代表される多殖主義(フィカンディズム)は世界に共通する原始的宗教意識の現れである。神道によくある男根女陰の生殖器官を表象したご神体もその一つであり,つまりそれは「部族間闘争において優位に立つためには頭数を増やすことが大事だった」という「陣取り合戦的人類史」の名残なのだ。そして歴史上唯一,こうした原始的宗教意識のくびきを脱却したのが仏教なのであり,堕胎を容認し水子を供養する日本人の生命倫理観は,その仏教哲学の日本的バリエーションの中に生まれた。

 難しい? 下世話な言い方をすれば,世界中に数多ある宗教の中で「多産を善」という教義を持たないのは仏教だけなのだ。だからこそ江戸時代,荻生徂徠などの御用学者は「仏像など無駄だから鋳つぶして貨幣にしたほうがいい」とまで仏教を攻撃したし,明治初期,富国強兵を推進した明治政府は廃仏毀釈を断行したのである。歴史上為政者が多産を奨励したのは例外なく税収が増えるからであり,増えた国民が幸せになるからではない。これはどこの国もおんなじなんだけど,どこの国でも馬鹿な国民はそんなこたぁないと思ってんだよね。

  上にも書いたようにこの本の原著は1992年の出版なので,現在のニッポンには当てはまらない記述もある。曰く「学校中退率は日本ではわずか6%であるのに対して,合衆国では30%になる。日本の薬物中毒やレイプ犯罪は統計的に僅少である。日本の都市の子供が生命の危険を感じないで暮しているのは大人も子供も殺傷力のある武器を所持しないからである」……。いやぁ,我々のクニはこの15年の間もやっぱり「アメリカに追いつけ追い越せ」と必死で努力してきたんですなぁ,と涙が出ますね(笑)。とにかく,中絶問題のみならず,宗教や文化人類学に興味がある人にもオススメできる労作,労訳であります。 


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