いやはやこれまたなんとも書評のしづらい本である。だってそうでしょ? 著者バイヤールはパリ第八大学の教授にして精神分析家なのだが,この本はそういう,なんつうか大学教授という立場にある者として「当然読んでいると思われている」ところの他人の研究論文だの著名な文学作品だのについて,読まずにコメントをするということを正当化…というより推奨するという内容なわけで,その本を読まずに書評するならともかく,ちゃんと読んだと言って書評するなんて,まるでちゃんと読んでないみたいではないか(そろそろなにがなんだかわかんなくなってきたでしょ?)。
バイヤール先生はまず「未読」というものを段階分けする。最初はもちろん「ぜんぜん読んだことのない本」について。ここで先生はムジールの「特性のない男」という小説(自慢ぢゃないがオレはこんな本読んだことも聞いたこともなかった)の登場人物である図書館の男の「有能な司書になる秘訣は,自分が管理する文献について,書名と目次以外は決して読まないこと」という方針を例に引き,この世の書物全部を読むということが不可能なのだから,1冊でも読んでしまうことは「書物の全体像」を把握するという目標にとって「偏向」に過ぎないと説く。
次の段階は「ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本」で,ここにはヴァレリーが登場する(念のために付記するとオレはこのヒトの名前は知っているが当然1冊も読んだことはない)。このヒトはどうも「他人の本を読まないこと」を生涯の目標としていたらしく,彼がいかにその著作を読まずしてプルースト(有名な「失われた時を求めて」の作者。もちろんオレは読んでない)を評価し,またコレージュ・ド・フランス(フランスの国立高等教育機関)における彼の前任者であったアナトール・フランス(このヒトも読んだことない…かな?)へ賛辞を捧げるのを周到に回避したかを指摘する。
第三の段階は……もういいよね。とにかく結論として,本を読まなくてもその本について語ることは可能なのであり,多くの立派なヒトがそうしているのであり,逆にちゃんと本を読んでその本を語るなんてのは自らの主体性を失うマトモな人間なら絶対に避けるべき行為なのである。そういうわけなので,オレは一応この本を読んでこれを書いているが,この文章には多分にオレの創作が入っているのであり,またそれこそがバイヤール先生の望むところであるはず…かどうかはどうでもいいのである。いやぁまったくもってフランス人ってヤツは厄介なヒトたちでありますなぁ。