私がバスに乗っていると後ろの席の男が小声で話しかけてくる。
「あの,ちょっとすいません」
思わず振り返ろうとする私を,慌てた,しかし押し殺した声が制する。
「あ,私の方を振り向かないで! 声だけ聞いてください」
私は振り向きかけた顔をぎこちなく窓に向いたあたりで静止させ,横目で男を観察しながらとげとげしい声で尋ねる。
「いったいぜんたいどうしたっていうんですか?」
「あ,すいません。そんなに怒らないで。実は私,ある連中に追われてまして……」
物騒な話にこちらも小声になり,
「追われているって,あんた……」
視界の隅に見える男は小柄な,どこと言って変わったところのない中年男だ。右手で私の椅子の背もたれを掴み,その手の甲に額を預けるようにして顔を伏せている。だいたい追われている男が全区間210円の乗り合いバスに乗るだろうか。
「お願いがあるんです。そのままあなたが振り向くと,出口のドアのすぐ後ろの席に座っている女が見えると思うんです。その女の顎のあたりにホクロがあるかどうか,あれば窓ガラスに指でマルを,無ければバツを描いてもらえませんか」
言われるままにその席を見る。確かにそこにはサングラスをかけた若い女が座っており,その顎の右辺りにかなり目立つホクロがある。
「たしかにありますよ」
ささやきながら窓ガラスにマルを描く。バスが次の停留所に停まると,男はやにわに顔をあげ涙にむせびながら私に礼を言ってバスを降りる。追って行くのではと思ったが,ホクロの女はバスに乗ったまま…。
それから3ヶ月,私がバスに乗るたびに,車内には顎にあの目立つホクロのある誰かが,いる。