テロ フェルディナント・フォン・シーラッハ著

 本屋大賞を受賞した「犯罪」,それに続く「罪悪」「コリーニ事件」などで日本でも読者を獲得したドイツの作家,フェルディナント・フォン・シーラッハの2015年の作品「TERROR」の翻訳。

 形式は戯曲。舞台は法廷である。被告はオーバーアッペルスドルフ上空でベルリン発ミュンヘン行きのルフトハンザ機を撃墜し,乗客164名を殺害し起訴された空軍少佐。ドイツの裁判は一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官と共に行う「参審制」。検察官が起訴状を読み上げたあと,自ら抗弁しようとする被告人を抑え弁護士が立つ。彼の説明はこうだ。

 ニューヨークの世界貿易センターを標的とした2001年9月のテロを受け,ドイツ連邦議会は航空安全法という法律を成立させた。これは悪意ある何者かが飛行機をハイジャックしより大きな被害が予想される施設へ突入を意図する場合,国防大臣の判断により当該航空機に対する武力行使,すなわち撃墜をやむなしとするというものだった。

 この法律は2005年に施行されたが,1年後連邦憲法裁判所がこの法律の重要な条文を無効にした。すなわち無辜の人を救うために他の無辜の人を殺すことは違憲である,としたのである。生命を他の生命と天秤に掛けることは許されない,というこの憲法裁判所の判決は,ドイツにおけるすべての国家権力に対する制約となる。

 そして2013年,今回の事件が発生した。

 7月26日午後7時32分,件のルフトハンザ機をハイジャックしたテロリストは,国家航空安全指揮・命令センターに無線で,旅客機をミュンヘン近郊のサッカースタジアムに墜落させるつもりであることを報せてきた。そのスタジアム,アリアンツ・アレーナではその日ドイツ対イギリスの国際試合が行われており満席,観客数は約7万人。

 連絡を受けた空軍総監は警戒飛行小隊,すなわち戦闘機ユーロファイター・タイフーン2機を緊急発進させ,旅客機の操縦席の状況を目視させるとともに,その飛行進路を妨害して強制着陸させるよう命令した。しかしこの妨害はうまく行かず,パイロットは手順にしたがって次ぎに曳光弾と通常弾を混合させた警告射撃を行う。

 しかし旅客機は進路を変えず,スタジアムへの到達時刻は刻一刻と迫る。空軍総監は国防大臣に旅客機の撃墜を進言するが,国防大臣は憲法裁判所の判決に基づいてこの進言を却下。その指示を受けたユーロファイターのパイロット,つまりこの裁判の被告人は,その命令が間違いないかを二度確かめた。

 そして全員がかたずを呑んでレーダーの画面を見守るなか,スタジアムへの距離が25キロを切る。被告人は「今撃たなければ7万人が死ぬ!」と叫んでサイドワインダーを発射,ルフトハンザ機を撃墜した…。裁判は被告人質問,証人(撃墜された乗客の妻)質問と進み,やがて判決が下される。

 これはある種の思考実験でもあり,また異なる価値観の相克を埋めようとする(それは二つの価値観をすり合わせようという意味ではない)試みである。もしあなたが被告の立場であったならどうしたか。夫を奪われた証人の立場であったらどう思うか。シーラッハが提示したいのは「正しさ」ではなく,「正しさ」というものの「正しくないあり様」だと思う。


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