北野武監督「首」を観てこの本のことを思い出した。一般的に「サムライ」には肯定的な,「ヤクザ」には否定的な印象を持つ人が多かろう。が,そうした先入観を捨て,その時代,その社会の持つ「男」というイメージの担い手として捕らえると,この両者が一つの系譜に連なるものであることが分かる……といったホンなのである。
徳川家による幕藩体制が確立し「荒ぶる戦士」である必要がなくなった「サムライ」は太平のうちに官僚化(別に去勢はされてないが「宦官化」と言ってもいい)し,「男」の持つ暴力的な部分は陸尺(武家がやとう籠かきのこと)や臥煙(火消し),そしてやがて出現するヤクザによって体現されるようになった,という論には違和感を持つ人もおられるだろうが,オレなどちと納得してしまうなぁ。
現代人が持つ「サムライ」のイメージは,歌舞伎などのフィクションや「葉隠」などの武士自身による著作に拠ったものだ。身も蓋もないことを言えばそれはある種の理想像であり,イメージ通りの立派なサムライが世の主流であったなら明治維新はああいう風にはならなかったはずなのである。
赤穂浪士は「あんなことをやる人達がなかなかいなかった」から芝居になり歴史に残ったのであり,同時代の大多数のニンゲンはサムライも含めて,現代に生きる我々と同様いわば「有象無象」なのであり,どっちかと言えば落語に出てくるような臆病でスケベで多少こすっからいところもあるがまぁまぁ善人てな存在だったに違いない。そういう意味では新たな視点を示してくれる好著である。
それにしてもサムライが行っていた衆道(男色行為)に「若者に男の神髄(この場合精液のこと)を注入する」という意味合い(方便とも言うな)があった,という話はメウロコでした。ほんぢゃオンナとやるときはオンナをオトコにしようと思ってやってんのかよ。