一人の男が神経科医を訪れる。座面が回転する丸椅子に腰を下ろした気弱そうな男に医者が尋ねる。
「それで,どんなことにお困りですか?」
「え,お困りって……。普通のお医者さんって,この場面では『どうしましたか?』とか訊くもんぢゃありませんか?」
医者は我が意を得たりという風情で頷き話し始める。
「そうです。普通のお医者さんはね。なんていうか決まり文句みたいなものですね。落語家は『毎度ばかばかしいお笑いで』と言い,床屋さんは『今日はどうしましょう?』。医者は『で,どうしましたか?』ですよね? 実は私は学生の頃から,そういう決まり文句が好きぢゃなかったんです。説明すると威張ってるみたいなんだけど,初めての患者さんと相対してそのヒトの話を初めて伺うというのに,そういう気持ちの入ってない言葉で始めてしまうということは,緊張感がなさ過ぎるんぢゃないかと思うんですね。で,毎朝家を出て病院に来る道すがら,今日はどういう言葉で患者さんに話しかけようか,と考える癖をつけてまして,今日使うことにしたのが『どんなことにお困りですか?』なんです。人は困らないと医者になんか来ないもんです。とくに神経科にはね」
「ははぁ,なるほど」
「ではあらためて,お聞きしますね。どんなことにお困りですか?」
「いや先生,ご説ごもっともと思いますが,今日ここに来るにあたっては私もいろいろと悩んだ末のことでしてね。どう見えるかわかりませんが神経科というのに来るのは初めてですし,その,症状というのか,それがまた特殊なんで,昨夜から頭のなかで何度も何度もお医者さんとの会話というのをシミュレーションして来たようなわけで……。もちろんいろんなバリエーションを想像して来たんですが,どれもこれも,とにかくお医者さんの第一声は『で,どうしましたか?』で始まってたんですよ。なので……,まことに申し訳ないんですが,私に限ってで結構ですんでどうか『で,どうしましたか?』と始めてくださいませんか」
興味深そうに彼の話を聞いていた医者はにこりと笑い,手元のカルテに自身にしか読めないようなくずし字で「饒舌」という意味の英語を書き込む。
「わかりました。で,どうしましたか?」
「あ,ありがとうございます。その……」
男の瞳が忙しく左右に動き,姿勢が心持ち前屈みになる。釣られて医者も前屈み……。
「耳が動くんです」
「は?」
「ヘンな話だけど,私,耳が動かせるんですよ」
医者は拍子抜けした様子で背もたれに身体を預ける。
「耳を動かせる人はたまにいますよ,私はできないけれど珍しくもない。ご心配なく,別に病気でもありませんよ」
男は前夜からのシミュレーションが無駄にならなかったことがよほど嬉しいらしく,満足そうに唾を飲み込んでから吐き出すように言う。
「そういうと思った,違うんです。私が動かせるのは……」
その瞬間,医者は自分の耳の根元の,今まで動いたことのない筋肉が目蓋のけいれんのような感じで振動するのを感じて仰天する。男はいたずらを見つかった子供のような表情になり,
「ね?」
「これはすごい。ね,念力というんですか。物を浮かせたり,そういうこともできるんですか?」
「いえ,動かせるのは耳だけなんです」
医者は興奮冷めやらぬ口調で,
「いや,きっと耳は……動かしやすいとも思えないけれど。そ,そう,発端ですよ。そのうちいろいろなものが動かせるようになるんぢゃないかなぁ」
医者の脳裏では,はっきりと形を取るところまではいかないものの,研究材料,チャンス,学会発表,ノーベル賞などという言葉がそれぞれ勝手なリズムに乗って踊っている。
「たとえば,ですよ。耳を動かすときより力を入れれば……私にはどこに力を入れるのかわからないけど,この,ボールペンくらいは転がせるんぢゃありませんか? ひとつやってみませんか?」
医者は手を握らんばかりの勢いで乗り気でない男を説得する。熱意に気圧されるような感じで男は実験に同意する。
机の上に置かれたボールペンを見つめて男は彼にしかわからないどこかに力を込める。しかしボールペンは微動だにせず,ただ医者の耳が先ほどと同じように動くだけ……ではなく,病院中の,町中の,国中の,そして男が力を振り絞ると、やがて世界中の人間の耳が動きはじめる。