翻訳家の男。初対面の編集者に繁華街の喫茶店に呼び出される。約束の時間に30分ほど遅れて現れた編集者はくたびれた茶色の鞄から分厚い洋書を取り出し,
「これ,アメリカでかなり有名な実業家が書いた本なんですけどね」
翻訳家は職業上の習慣から題名を即興で翻訳してしまう。
「『フレディを信じなかったわけ』ですか?」
「そうなんです。もっともその題名は出版社が勝手につけたものらしくて……」
編集者はそこで,通りかかったウェイトレスにコーヒーとサンドイッチを注文する。
「サンドイッチにはハム,ベジタブル,ミックスがございますが」
「実を言うとわたしがざっと読んだところでは題名のフレディという人物は登場しないんですが……」
重たげなPOS端末を構えて通路に立っているウェイトレスのエプロンには2カ所,コーヒーが跳ねたらしい染みがあり,白いタイツの先の踵の低い黒い革靴は親指のつけねの辺りが白くなっている。翻訳家は注文を待っているウェイトレスに気を遣って言う。
「あの,先にサンドイッチを決めた方がよくないですか?」
「ああそうですね,あのね,ミックスサンドにはオニオンが入ってるかな?」
「ああ,はい少しですけど」
茶色の鞄の中からヨハン・セバスチャン・バッハのカンタータ第147番「イエスは我が喜び」が流れ出す。編集者は鞄からケータイを取り出してスイッチを押す。
「あ,はいはい。いま例の件で。…今日ですか? えっと,これのあと5時くらいからなら…。ええ,お忙しいことは重々承知しているのですが…」
ウェイトレスが横を向いてこっそりため息をつく。翻訳家は心の中で編集者に「フレディ」と渾名を付ける。