原作が刊行されたのは1990年代の終り頃。オレもまだ30代で今に比べればかなり脂ぎってたので、前半のなんというか淡々とした「引退後の暮らし」というものの描写をちゃんと味わえなかった…というか、はっきり言えば「いつ『敵』が出てくるの? わくわくドキドキ」だった。歯周病予防の話など読み飛ばした憶えがあるのだが、あの頃は彼方に思えたビートルズの歌の年齢まであとわずかとなった今は、主人公・儀助よりオレの方がちゃんと歯をケアしている。
基本朝飯が白米なのも同じだ。副菜も似通っている。あんな古くて広い家に住んでいるわけではなく集合住宅だがときおり玄関前に放置された犬のクソに腹を立てる。呑みに行く友人たちもすっかり年下ばかりになった。違いと言えば職業柄、1980年代の半ばから所謂ネットワークに関わり、日々受け取るジャンクメールも膨大なので儀助のようにいちいち着信を通知させる設定にはしていないことか。それでウチには「敵」は来ないのか。いや「敵」に気付かないのか。
前半、いくつかの定点カメラで切り取られる儀助の生活の描写は、あのヴィム・ヴェンダーズの「PERFECT DAYS」を思わせる。起きる、朝飯を作って食う。歯を磨く。食器を洗う。洗濯機をまわす。掃き掃除。昼飯…あ、昼飯がたいてい麺類なのも今のオレと一緒だ。コンピュータ(映画の iMacは2015〜16年くらいのモデルだな)に向って原稿を書き(オレはまだプログラミング仕事してるけど)、電話は固定電話…これは違うな。
観ている間、ずっとそれを気にしていたわけではないので断言はできないのだが、画面がこの定点カメラの安定した画角から外れると、それは儀助の夢・妄想・幻想という仕掛けなのではないか。小説が文章で実現しているあの「日常から連続していながら気がつくと絶対に日常ではないところにいる感じ」が、小説とはまったく違ったメソッドで再現されていく。教え子の靖子とディナーを摂るのは現実か。ではワインに酔った彼女がソファで寝ているのは?
映画ならではの「怖さ」もある。コンピュータの画面に流れて行く「敵」に関する情報。小説なら同じ文章を何度も読み返せるから、「北? 北海道? 東北? え、宇都宮?」と確認できるが、映画ではそれらの「情報」は次から次へと書き換えられ消えて行ってしまうのだ。実はもう近くの町まで『敵』が来ているのにその報せを見逃したのではないか。もう町内に進入したのではないか。その情報が「儀助が観ていないシーン」でモニタを流れて行くのが怖い。
映画の設定では儀助は77歳(原作では75歳だっけ?)。オレもあと十数年である。教師ではないので教え子はおらず、靖子のような美女は訪ねてこない。結婚もしなかったので亡き妻も蘇らない。残す財産とてないのであんなちゃんとした遺言状を書く必要もない。こう総括してみるとオレのほうがなんかいろいろ寂しいが、せめて飲み屋のねえちゃんに入れ揚げて銭をだまし取られないように気をつけようと思う。